++ 歴史小説・ノンフィクション ++



NO.50  『危機と克服(中)』  塩野 七生 著

 ガルバ、オトー、ヴィテリウスの三皇帝が倒れた後、次なるローマ皇帝に抜擢されたのはヴェスパシアヌスであった。三皇帝による内乱と同時期に起こっていた西方のゲルマン系ガリア人の反乱と東方のユダヤ人の反乱を解決することが彼に課せられた最初の問題であったが、息子のティトゥスや協力者ムキアヌスに助けられ解決してゆく。時代が必要としていた健全な常識を持ち合わせた皇帝ヴェスパシアヌスは混乱のローマ帝国を救う救世主となった。

 さて、ヴェスパシアヌスの治世を概観して思うのだが、相変わらず善政を行う皇帝の下には優秀な協力者がいるということだ。これは皇帝の人選眼の善さに尽きると思う。よき右腕を見つける才能も成功への1つの要素と言えるのだろう。確かに日常生活に当てはめてみても、うまくいっている組織のトップの下には優秀なブレーンがいる。つまるところ、人選眼という能力は皇帝であるために欠かせない能力の中でも上位にくるものなのだろう。

 印象に残った一節。

 「民主制を守るために全員平等を貫くしかなかったギリシアの都市国家アテネが、意外にも、他のポリス出身者や奴隷に対して閉鎖社会であったという史実。そして、共和制時代には元老院主導という形での寡頭制、帝政時代に入ると君主制に変わるローマのほうが、格段に開放社会であったという史実は、現代でもなお一考に価すると確信する。」


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NO.49  『危機と克服(上)』  塩野 七生 著

 失政を重ねローマ帝国に混乱をもたらした最後のユリウス・クラウディウス朝の皇帝ネロがその人生に終止符を打った翌年、ローマ帝国にはガルバ、オトー、ヴィテリウスという三人の皇帝が現れては消えていった。彼ら三皇帝は統治力のなさ故、短期間で破滅し、ローマ帝国の内戦を引き起こしてしまう。

 さて、この三皇帝の統治を顧みると、著者も言うようにやるべきことをせずにやるべきでないことばかりを行っている。そう考えると、カリグラやネロの方がまだましだったのではないかと思わざるを得ない。どちらにせよ、この三皇帝に明らかに欠如していたのは人心掌握の策ではないかと思う。元老院やローマ市民、軍の心を掴まなければ政治などできたものではない。ローマ帝国での皇帝は承認されて初めて成立するのであるから当然と言えば当然であるが、当の三皇帝はこの感覚が欠如していたようである。これでは皇帝が勤まるはずもない。この絶望を救うのはいったい誰になるのか、次巻が楽しみである。


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NO.46  『風林火山』  井上 靖 著

 「風林火山」と言えば誰もが甲斐の武田信玄を思い浮かべるであろうが、本書「風林火山」の主人公はその武田信玄ではない。浪人の身から武田家に仕官し、その機知と戦略の鋭さで若き信玄の右腕となって活躍した軍師、山本勘助が主人公の作品である。本作は山本勘助が武田家への仕官を目指す場面から始まり、川中島の戦いまでを描いている。

 武田信玄、彼には威厳があり、やはり当主にふさわしい人物であったように思う。しかしながら、彼の業績を影で支えたのは山本勘助であり、山本勘助なしでは彼の業績は成しえなかったのではないか。決断をするのは当主である信玄であるが、決断までの手筈を整えるのは右腕となる人物、つまり勘助なのである。この勘助の生き方は、威厳はないが機知に富んだ人物の理想的な生き方なのかもしれない。下手に前に出ようとするよりも、この方が成功するのだろうと、歴史小説を読む度に考えてしまう。


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NO.42  『悪名高き皇帝たち(四)』  塩野 七生 著

 4代目皇帝クラウディウスは妻であるアグリッピーナの野望の犠牲となり死亡した。そして、その後を継いだのが養子であった当時16歳のネロであった。誰からも歓迎された5代目皇帝ネロであったが失政に失政を重ね、終には「国家の敵」と断罪され、彼の人生とともにカエサルやアウグストゥスが築き上げた「ユリウス・クラウディウス朝」にも終止符を打つことになった。

 さて、ネロと言えば悪名高き皇帝たちの中で最も耳にする名前のように思う。しかし、彼の治世を概観するかぎりティベリウスやクラウディウスの治世の方が印象的であるし、重要な役割を担っていたようである。しかしながら、よく名を聞くのはネロである。何故か。それは彼がキリスト教徒の弾圧を行ったからではなかろうか。いや、そうであろう。現代にまでキリスト教が続いていなかったならば、彼の行った弾圧に対して歴史は見向きもしなかったといっても過言ではないかもしれない。歴史というものはバイアスなしに見ることができないという性質がつきまとう。それを考慮してネロを見ると、なんとも可哀相である。


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NO.41  『悪名高き皇帝たち(三)』  塩野 七生 著

 若き皇帝カリグラの後を継いだ四代目皇帝は50歳まで歴史家として生きてきたクラウディウスであった。彼にはカリグラの愚政によって失われた人々の信頼を回復し、内政、外政ともに山積する問題を解決することが課せられた。彼はゆっくりではあるが、一歩一歩着実に問題を解決してゆく。悪妻と言う慢性的な問題を抱えつつも。

 さて、彼の治世を概観すると、統治をする人間にとって歴史を知っていることの重要性を見せ付けられる。特に長髪のガリア人たちに元老院の議席を与えるか否かを議論した際の彼の論は、ローマがここまで繁栄してきた本質を押さえたものであり、歴史を知らない者には到底辿りつかない結論に導く。もちろん歴史偏重では意味がなく、現状を踏まえた上での歴史の応用が重要になってくるのは言うまでもない。その力も彼には備わっていたようだ。彼の統治は、歴史からある一定の法則や本質を見抜いておくことが今を生きる私たちにとって重要な意味を持つということを再確認させてくれるものであることは間違いないだろう。


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NO.40  『悪名高き皇帝たち(二)』  塩野 七生 著

 本巻は二代目皇帝ティベリウスの後を継いだカリグラの治世を描いている。彼は何にも抗されることなく、万人に歓迎されて即位した初めての皇帝だった。その人気を失うことを恐れたためか、彼の行う政治は言わば人気取りの政治であり、ティベリウスが築き上げた財源はいとも容易く消費された。人気取りには才を発揮したカリグラも愚政が仇となり無残な最期を迎えることになる。

 「普遍とは、それを押し付けるよりも特殊を許容してこそ実現できるものである。」

 人気取りに従事したカリグラの治世で印象に残ったことは、正直少ない。しかし、ユダヤの統治に関して上記の一節は参考になったので紹介する。この一節は、カリグラがユダヤ統治を上手く行ったために生まれた教訓ではなく、失敗したがために生まれた教訓である。これまでに登場したローマの指導者たちは皆、このバランス感覚が優れていたように感じる。しかし、カリグラは違った。そこが彼に愚政を行わせた原因であったのではないかと思う。ローマ人たちは今回の経験を活かして、統治能力を持ち合わせた指導者を見つけることができるのかが、この先ローマの存続の鍵を握っていくのだろう。


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NO.39  『悪名高き皇帝たち(一)』  塩野 七生 著

 本巻は帝政を築き上げたアウグストゥスに続くローマ皇帝ティベリウスの治世について描かれている。彼は人々から嫌われ、カプリでの政務に至っては非難を浴びる。それでも元老院からは神格化を提案されるなど、統治者としての資質は事欠かなかったようである。また、彼の業績を讃え、彼に捧げる神殿を建てたいとの提案に対して、彼が断った際の言葉は彼の政治や生き方に対するスタンスをよく表しているので紹介したい。

 「わたし自身は、死すべき運命にあたる人間の1人にすぎない。そのわたしが成す仕事もまた、人間にできる仕事である。あなた方がわたしに与えた高い地位に恥じないように努めるだけでも、すでに大変な激務になる。
 この私を後世はどのように裁くであろうか。私の成したことが、我が先祖の名に恥じなかったか、あなた方元老院議員の立場を守るに役立ったか、帝国の平和の維持に貢献できたか、そして国益のためならば不評にさえも負けないで成したことも、評価してくれるであろうか。
 もしも評価されるのであれば、それこそがわたしにとっての神殿である。それこそが、最も美しく永遠に人々の心に残る彫像である。他のことは、それが大理石に彫られたものであっても、もしも後世の人々の評価が悪ければ、墓所を建てるよりも意味のない記念物にすぎなくなる。わたしの望みは、神々がこのわたしに生命のある限り、精神の平静とともに、人間の法を理解する能力を与えつづけてくれることのみである。」

 人事の才にも秀でていたといわれるティベリウスだけあって、さまざまな対象に配慮し、自らの立ち位置を考慮した素晴しい言葉であると思う。


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NO.38  『パクス・ロマーナ(下)』  塩野 七生 著

 パクス・ロマーナが成立し、アウグストゥスの帝政がほぼ完成した今、残された課題は後継者を誰にするかの選択であった。彼が後継者として選んだ息子たちはいずれも若くして命を落としてしまう。さらに生き残ったティベリウスも引退している始末。カエサルとアウグストゥスが基礎を構築した帝政ローマは果たしてローマに根付くのだろうか。

 結局アウグストゥスは70代後半まで生きた。晩年になってティベリウスが復帰するまではアグリッパとマエケナスの死後はほとんど一人で政治という日々のプレッシャーの中で生き抜いた。小林秀雄によれば「政治とはある職業でもなくある技術でもなく、高度な緊張を要する生活」であるという。この状態を生き抜くのに必要な資質は認識力であり、持続力であり、適度な楽観性であり、バランス感覚。確かに彼の治世はこの四つの資質を必要とした治世であったように思う。少し楽観性が足りなかった感は否めないが、それでもバランスの取れた力を持っていたようだ。まだ17歳だったオクタヴィアヌスを見てこの資質を見抜いたカエサルはただならぬ人物であるといわざるを得ない。この力こそがアウグストゥスがカエサルに劣る最大の欠点であろう。


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NO.37  『パクス・ロマーナ(中)』  塩野 七生 著

 上巻に引き続き、アウグストゥスの政治は巧妙を極めた。決して「帝政」という言葉を口にすることなく、以後のローマに帝政を既成事実に持っていくそのやり方は実に上手い。市民や元老院の支持を背景に同胞アグリッパ、マエケナスとともにパクス・ロマーナの基礎は形作られてゆく。

 著者も言うように、カエサルに比べるとアウグストゥスの治世には迫力が欠ける。それはローマが平和であるからこそであり、仕方のない部分ではあるがやはり物足りなさを感じざるを得ない。しかしながら、派手な戦がない分、彼の治世には政治が目立つのも事実である。中でも私が気になったのが軍事の再編成をする際の彼の洞察力であり、職業に勤務年限制度がなかった時代に彼はそれを定めた点である。給料と退職金とのバランスを考えた勤務年限は、現代の専門的な職業に従事する人々に示唆する部分が多分に含まれている。  
 また、カエサル同様、彼も一つのことを一つの目的ではやらない人物であり、マキャベリの「如何なる事業も、それに参加する全員が、内容はそれぞれちがったとしても、いずれも自分にとって利益になると納得しないかぎり成功できないし、その成功を永続させることもできない」という言葉も、カエサルとアウグストゥスの政治を上手く形容しているように思う。


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NO.36  『パクス・ロマーナ(上)』  塩野 七生 著

 アントニウスを追いやりローマに平和が訪れた。オクタヴィアヌスはカエサルの意思を受け継ぎ帝政を目指すかのように見えた矢先、彼は共和制への復帰を宣言した。それに狂喜した元老院はオクタヴィアヌスにアウグストゥスの尊称を贈るなど彼に多くの名誉を与えた。しかし、これはアウグストゥスが帝政を成し遂げるための布石であったのだ。王政を連想させる上辺の職名は返上し、事実上帝政を成し遂げるために必要な力を徐々に手中に収めていく様は巧妙と言わざるを得ない。さすが、天才カエサルが見込んだだけのことはある。

 さて、ここで感じることは、使える時間が多いというのは政治を行うにあたって大きな武器になると言うことである。内政に着手し始めた年齢が50代であったカエサルと異なりアウグストゥスは40代であり、時間をかけて帝政へと導くことができた。それも帝政を目論んでいると気付かれないように。カエサルの不幸から得られる教訓として、急ぐあまりに強行になりすぎることは自らの首を絞めることになりうると言うことだろう。


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NO.35  『ユリウス・カエサル ルビコン以後(下)』  塩野 七生 著

 「人間ならば誰にでも、すべてが見えるわけではない。多くの人は、自分が見たいと欲する現実しか見ていない。」ユリウス・カエサルはそんな十四人に殺された。

 彼の暗殺後、彼の遺言書に記された後継者は若き少年オクタヴィアヌスだった。カエサルが指名した人物だけあってオクタヴィアヌスの政治力は優れ、相棒アグリッパとの二人三脚でカエサルの残した壮大な構想は一つ一つ着実に受け継がれてゆく。

 本巻で注目すべきはやはりオクタヴィアヌスの巧妙な政治であろう。特にアントニウスに対する彼の洞察力見物であった。軍事力を背景に力を持っていたアントニウスに対し三頭政治を画策し相対的な力関係を弱めていくのはもちろん、アントニウスの行動一つ一つを反ローマな行為であると世論をうまく誘導し、結果的に彼の独り舞台へと持っていく様は見事であった。追いやられたアントニウスに政治の素質がなかったのも事実ではあるが、アントニウスの行動を所与の条件として状況を改善していくオクタヴィアヌスの能力は卓越していた。カエサルの意思を継いだオクタヴィアヌスは戦いの終わったローマを今後どう導いていくのだろうか気になるところである。


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NO.34  『ユリウス・カエサル ルビコン以後(中)』  塩野 七生 著

 ポンペイウスの死後、ポンペイウス残党の蜂起を鎮圧し、漸く内政に着手できる状態になった。政治改革をはじめ、金融改革、行政改革、属州統治改革、司法改革はもちろん福祉や失業、殖民、治安、交通と漏れなく改革を実行し新体制樹立を目指した。また、自身も終身独裁官となり名実ともに帝政へと近づいてゆく。その最中、不幸は突然襲いかかってきた。ユリウス・カエサルは暗殺されたのである。彼の寛容さと群を抜いた才能が招いた結果であった。前巻でも書いたように彼の考え方は、あのキケロですら理解できなかったようである。王政アレルギーのローマはカエサルが王位を狙っていると誤解し彼を暗殺してしまった。やはり天才は理解されないものらしい。偉大なる指導者を失ったローマは一体どこへ向かうのだろうか。


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NO.33  『ユリウス・カエサル ルビコン以後(上)』  塩野 七生 著

 「わたしが自由にした人々が再びわたしに剣を向けることになるとしても、そのようなことには心をわずらわせたくない。何ものにもましてわたしが自分自身に課しているのは、自らの考えに忠実に生きることである。だから、他の人々も、そうあって当然と思っている。」

 ルビコンを越えたユリウス・カエサルは国賊扱いになり、スッラの再現を恐れた元老院議員たちはローマを離れギリシアへ向かう。そのギリシアでカエサルはポンペイウス軍と雌雄を決することになる。圧倒的不利な状況のカエサルだが持ち前の戦略眼で徐々にポンペイウス軍を追い詰めてゆく。その過程が従来のローマを彷彿とさせる。彼は降伏した人々に対して勝者の権利を行使せず、冒頭にあげた思想に基づき、彼らを解放するのである。後の政治をやりやすくするために取られた配慮ではあるにせよ、カエサルは未だに多くの問題を抱える人権にいち早く着目した人物ではなかろうか。物事の心理を巧みに突いた行動であるように思う。しかしながら、群を抜いたこの能力こそが後の運命を決めてしまう気がしてならない。やはり天才とは理解されないものなのだろう。


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NO.32  『ユリウス・カエサル ルビコン以前(下)』  塩野 七生 著

 本巻ではユリウス・カエサルがついにガリア平定を成し遂げる。しかし、数々の偉業を成し遂げてきた彼を待ち受けていたのは凱旋式ではなく、反カエサルによって謀られた元老院最終勧告であった。国賊になってまで「やる」か、それとも「やられる」かの選択を迫られ、彼は「やる」を選ぶ。その際注目に値するのが、彼が率いる兵たちが彼に従った一事である。彼らはルビコンを越える前に解散していれば国賊にならなくてもすむのにも関わらず、カエサルに従うことを選ぶのだ。ガリア戦役中にも要所要所で力を発揮してきたカエサルの言葉が兵たちを従わせたようである。彼の言葉には人を惹き込む力があるようだ。彼に従っていない私でさえ、彼の言葉を読んで、彼になら従っても良いと思ったくらいである。読み進めるにしたがって、次々に明らかになってくるユリウス・カエサルの能力の数々に脱帽するしかない。一体彼はどれだけの能力を秘めているのだろうか。


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NO.31  『ユリウス・カエサル ルビコン以前(中)』  塩野 七生 著

 前巻に引き続き本巻ではユリウス・カエサルについて、特にガリア戦役1年目から5年目にかけて記述されている。この頃彼は40歳を迎えており、多くの偉人たちと比較すると遅咲きと言えるだろう。彼はこの5年間に渡る戦役の中で次々とガリアを平定してゆくのだが、そのやり方が実に巧妙である。著者も度々指摘しているように、彼は1つのことを1つの目的では行わないのである。行軍の進路1つをとっても、この行軍によって影響を受ける全ての主体がどういった行動をとるのかを予測し、次なる手を打つ際に都合が良くなるように先読みをしている。しかも、その先読みは敵の行動だけでなく、見方の兵に対しても、ローマの内政に対しても行われる。敵の1手先を読むのであれば並みの武将である。彼のように2手も3手も先を読み効率的にガリアを平定に向かわせたのは、その類稀な能力であったようだ。まるでローマ全体を空から見下ろしているかのような彼の視野を彼は一体どこで会得したのだろうか。その答えを得られず、気になって仕方がない。


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NO.30  『ユリウス・カエサル ルビコン以前(上)』  塩野 七生 著

 これまでの巻では1人の人物に注目しすぎず通史的にローマを描いていたが、本巻ではユリウス・カエサル1人に注目し、少し時代を遡ってまで彼の幼年期・少年期・青年期について記述している。これを読むと、彼の青年期以前は傍から見ると災難続きであったように見える。内政の不安から国外に脱出しなければならない立場におかれたり、借金まみれの生活を送ったりと散々だったようだ。女性にもてすぎたのもある意味災難ではなかったかと思う。とは言え、これらの経験があったからこそ偉大なるユリウス・カエサルが誕生するのであって、後の巻ではこの経験がどのように生きていくるのかを観察していきたいと思う。


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NO.29  『人斬り以蔵』  司馬 遼太郎 著

 本書は人斬り以蔵をはじめ、司馬遼太郎の著書の中に登場する言わば脇役たちに焦点を当てた短編集である。どの作品もさすが司馬遼太郎、鋭く観察されたそれぞれの主人公たちは長編で主人公をつとめる坂本竜馬などに引けを取らないくらい独特の人生観や行動規範を持って描かれている。中でも本書のタイトルになっている人斬り以蔵こと岡田以蔵の生涯はとても興味深かった。武市半平太や坂本竜馬といった他者に対して異常なまでの影響力を持つ人間の前に自らの意思を持たない人間がいると、これほどまでに正反対の二つの行動ができるものなのだなと、かなりの驚きを感じた。確かにわたくし自身に当てはめて考えてみれば納得がいくかもしれない。わたくし自身の行動、それは今までに出会った多くの人の影響を受けている。高校生まではすぐそばにいる人物、大学生になってからは少し行動範囲が広がったものの、やはり近くにいる影響力を持った人物の言うことに影響を受け、それを行動規範として生きてきた。自らの考えを持っていないこと、それは自らの存在意義を見失わせる原因になりかねない。他人にうまく使われるだけの人生にもなりかねない。自ら考え、納得した上で受け入れる。当たり前のことかもしれないが、自分の意思や考えを持った上で行動することは必要なようである。


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NO.28  『燃えよ剣(下)』  司馬 遼太郎 著

 下巻では、池田屋事件以降、土方歳三の作り上げた新撰組が京において勢力を増していく状況、そして鳥羽伏見の戦いを境に劣勢となっていく状況の中で土方歳三が何を考え何のために戦い続けたかが描かれている。

 さて、本巻で私の印象に残ったのは土方歳三の女性観である。彼は新撰組を結成してからは色恋沙汰がほとんどない。時にあったとしても隊士に他言しないのだが、彼は官軍との戦争が始まる直前に好きな女ができる。そしてその女に対する感覚が鋭い。彼自身の気持ちがそれまでの女とこの女とで違うことに気付き、一般的な言葉にしてしまえば「恋」がわかり始めてくる。それ以降の彼の生き方の変化を見ていると、仕事に明け暮れる男性にとっての女性の存在意義が見えてくる。その女性観が非常にかっこいい。自分の人生が自分ひとりのものでなくなる瞬間とでも言えようか、そんな瞬間を私も感じてみたいと思った。


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NO.27  『燃えよ剣(上)』  司馬 遼太郎 著

 新撰組副長土方歳三の生涯を描いた作品である。上巻には喧嘩好きの武州者に過ぎなかった土方歳三が、誰もが恐れる幕末の最強集団新撰組をいちから作り上げる様子を描いている。

 土方歳三は組織作りに関して天才的な力を発揮する。とにかく強い集団にしたいと考えていた土方は、厳しい隊則を作るなどとにかく規律が緩むことや足並みが乱れることを嫌った。現代の学校や職場などの組織とは逆行するやり方で新撰組を強くしようと考えたのだった。そんな厳しい規制の中から生まれてくるオリジナリティ溢れる新撰組の幹部の面々を現代の組織に生きる人々と比べると、どちらが際立った個性を持ち合わせているのかがとても興味深かい。もしかすると厳しい規制の中で飛び出てくる人間の方が、飛び出すためのエネルギーが必要な分、個性的であるのかもしれない。土方歳三の組織の作り方は、他にも目を見張るものが多くおもしろい。


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NO.26  『竜馬がゆく(八)』  司馬 遼太郎 著

 最終巻である本巻で、ついに徳川慶喜が大政を奉還すると表明し、三百年余りの徳川政権は幕を閉じる。ここで漸く竜馬の目標は達成され、日本の維新への勢いはどんどん加速していく。しかしながら、明治への道を切り開いた竜馬は明治の日本を見ることもなくこの世を去ることとなる。

 さて、文中に「われ死する時は命を天にかえし、高き官にのぼると思いさだめて死をおそるるなかれ」また「世に生を得るは、事をなすにあり」という言葉がある。これは竜馬の持論であり、まさに竜馬の行動を言葉で表した文である。偉業を成し遂げる人々はこのような考え方をしていることが多いと感じる。私にはないこのような考え方を持ち合わせるにはどのような素質が必要なのか、これこそ私が「竜馬がゆく」を読もうと思った一つの理由である。読んでみて解ったこと、それは福澤諭吉然り、坂本竜馬然り、彼らは幼少期から身の回りにある不条理なものを易々と受けいれなかったということである。おかしいと感じたことを鵜呑みにしてこなかったのである。こうして幼少期から培われた不条理を正そうという姿勢が歳を重ねるにつれて、身の回りから日本へと広がっていったのだろう。これは尊敬すべき考え方である一方で、彼の幸せは私にとっての幸せでないのも事実であり、私は国家的な偉業を成し遂げる人物ではなさそうである。


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NO.25  『竜馬がゆく(七)』  司馬 遼太郎 著

 竜馬はまたしても奇策を講じることになる。前巻では倒幕のための勢力として薩長の軍事同盟を文字通り東奔西走して成し遂げた。それにもかかわらず、竜馬は幕府のもつ政権を穏やかに朝廷に返還させる大政奉還を行おうとする。これによって内乱を避け、外国につけ入る暇を与えず、一挙に新政府を樹立するという無血革命を成功させようとしたのである。

 竜馬がやろうとしていることは、当初の目的と比べても変化はない。しかしながら、その手段は幾度となく変わってきている。柔軟な対応と言えばそうであるが、一方で周りにいる人々からすれば竜馬が何をしようとしているのか全くわからなかったであろう。とは言え、与えられた諸条件の中で最適の答えを出す能力にはやはり脱帽である。


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NO.24  『竜馬がゆく(六)』  司馬 遼太郎 著

 前巻で頓挫せざるを得なくなった竜馬の野望を成し遂げるために、竜馬が次に取りかかった計画は犬猿の仲である長州と薩摩の手を組ませることであった。両藩は互いに憎悪し合っているため、今まで誰も薩長に手を組ませようとしてこなかった。しかしながら、竜馬は不可能を可能にするために奔走し、ついに薩摩と長州の軍事同盟を結ぶことに成功する。この瞬間、竜馬の野望は再び前進を始めた。

 薩摩を代表する西郷吉之助、長州を代表する桂小五郎、そして両者を取りまとめようとする坂本竜馬、この3人のやり取りはとても興味深かった。特に西郷と桂の2人がそれぞれ何を得意とし、何を一番大切としているのかが、交渉の場や行動からおもしろいようによくわかる。当事者の1人である竜馬は客観的にこの密議を見れていたのだろうから、密議をまとめるのは大変である一方で楽しかったのではないかと思う。徐々にではあるが、もしかしたら、竜馬の奔走は日本のためだけではなく、自身のためでもあるような気がしてきた。


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NO.23  『竜馬がゆく(五)』  司馬 遼太郎 著

 竜馬が一隻の軍艦を手に入れた矢先、池田屋の変や蛤御門の変を経て時勢は急速に佐幕色へと移り変わる。時勢は竜馬がやっとの思いで作り上げた神戸軍艦塾をも解散させてしまう。「志士たちで船体を操り、大いに交易をやり、時いたらば倒幕のために海軍にする」という竜馬の壮大な計画も頓挫せざるを得なくなってしまった。前途多難な道のり、竜馬はどう打開するのだろうか。

 さて、本題から逸れるが本巻で印象に残った一文がある。おそらく今読んだからこそ印象に残った一文なのだが、「大望を持つ身は、いつ地上から消えても、跡形もないようにしておきたい」とある。確かに、と思った。自らの命と引き換えに何かを成し遂げようとする身にとって、生きることに未練があることは重荷にならざるを得ない。命を懸けるとは言わずとも、持てる時間を最大限に費やして何かを成し遂げようとするならば、重荷を背負っていることは成功を遠ざける可能性がある。竜馬ですら特定の女を持つことを危惧していたと思うと、竜馬に親近感がわくと共に、男は女に弱い生き物だという事実がとても微笑ましい。


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NO.22  『竜馬がゆく(四)』  司馬 遼太郎 著

 本巻で、竜馬はついに一隻の軍艦を手にする。勝の私塾として設立された神戸軍艦塾に幕府から一隻の軍艦が貸与されたのである。「志士たちで船体を操り、大いに交易をやり、時いたらば倒幕のために海軍にする」という竜馬の奇異な発想は着実に現実味を帯びつつあった。一方で、時勢は混乱を極め、長州は没落、武市の作り上げた土佐の勤王政権も容堂の手によって崩壊、勤王派勢力は後退を余儀なくされる。

 ここで、武市に注目したい。武市半平太、彼は生涯土佐藩という枠組みに固執した。土佐24万石を以って勤王化を成し遂げ、倒幕勢力たらしめようとしたのである。保守的な藩風を見限り脱藩した竜馬を余所に武市は土佐の勤王化に奔走し、結果、武市は土佐に勤王政権樹立に成功する。しかしながら、容堂によって政権は崩壊、そして容堂寵愛の後藤象二郎、乾退助によって殺されてしまう。武市半平太と坂本竜馬、両者の違いは時勢を読んでいたか否かによるものであろう。後に、後藤と乾は竜馬とともに倒幕側に付き、土佐藩も勤王化していったことが何よりの証拠である。竜馬を見ていると時勢に乗れる人物とは待つ勇気を持つ人物であるような気がしてならない。


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NO.21  『竜馬がゆく(三)』  司馬 遼太郎 著

 第3巻で、竜馬は劇的な変貌を遂げる。そのきっかけとなったのが勝海舟との出会いである。竜馬は勝の影響を受け、勤王と佐幕という言わば極左と極右が対立していた時期に、そのどちらでもない独自の考えを持つことになる。その考えとは、海外との貿易によって国力を充実させるというもの。そのために倒幕は必要である、と。

 竜馬と勝は偶然にも出会うことができた。出会わなければ歴史は変わっていたはずである。故にこの出会いのために今の日本があると言える。もしあの時、勝に会いに行ったのが竜馬でなく他の勤王志士であったならば、おそらく勝は明治まで生きながらえることはできなかったであろうし、竜馬でなければ勝の考えを理解できなかったであろう。藩でもなく幕府でもなく日本を考えていた竜馬だからこその功績と言える。


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NO.20  『竜馬がゆく(二)』  司馬 遼太郎 著

 第2巻では、黒船来航以来沸き立ち始めた勤王志士と幕府との勢力争いが描かれている。薩長に遅れをとらぬよう土佐の勤王化を目指す武市半平太。しかし、土佐は保守的であり、有無を言わさぬ階級制度が足枷となり、その勤王化は不可能に近かった。その土佐を見限った竜馬は風雲の中に自由を求め、脱藩することを決意する。

 前巻では、剣術家坂本竜馬の印象が強かったが、本巻では漸く歴史の教科書に登場する坂本竜馬の片鱗を示し始めた。とは言え、壮大な思想を持ち始めたわけでもなく、もちろん大仕事を成し遂げたわけでもない。しかし、彼は土佐と江戸とを行き来するうちに、土佐の他藩に比べ厳しすぎる階級制度に違和感を覚え始めたのだ。当時に身を置き換えて考えれば、この感覚を持つことがいかに困難であるかは想像に難くない。小さなことではあるが、このような感覚が今後の竜馬に繋がってくるのではないかと思えて仕方がない。

 余談だが、かなり前に読んだものを思い出しながら書くのはよくない。読んだ直後の感動が全く表現できない。今後は気をつけようと思う。


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NO.19  『竜馬がゆく(一)』  司馬 遼太郎 著

 坂本竜馬を知らぬものはいない。そういっても過言ではないほど、坂本竜馬は現代日本において、特に幕末維新史上欠かすことのできない人物である。とは言え、わたくしは坂本竜馬が成し遂げた薩長連合や大政奉還などの歴史的功績を知るのみで、彼が一体どのような人となりをし、どのような考え方を持って幕末の動乱期を生きていたのかを全く知らない。先に読んだ同時代の偉人である福澤諭吉や徳川慶喜とは立場の異なった坂本竜馬がいかにしてこの大仕事を成し遂げたのか、今から非常に楽しみである。

 さて、第一巻を読み終えて思うことは、この巻だけではどうして彼が政治的な大仕事を成し遂げることができたのかわからない、の一点に尽きる。剣術家として大成する素質があることは、彼の千葉道場での活躍ぶりからも窺うことができる。しかし、その他は特徴ないとは言わないが、傑出しているとは捉えがたい。この坂本竜馬がどのようにして幕末維新史上の奇蹟と言われる人物に成っていったのか、心して読んでゆきたい。


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NO.18  『宮本武蔵(八)円明の巻』  吉川 英治 著

 幕士への道が沙汰止みになった後、武蔵は再び修業の旅にでた。剣の旅ではない今回の修業の途中、岡崎で塾を開いていた所、武蔵は愚堂和尚に出会う。そして武蔵は和尚に問うた、「どうすればよいのか」と。答えをもらえるまで付き従おうと決心した武蔵は和尚に問い続け、あとを追うが和尚は答えなかった。しかしながら、ある時和尚は武蔵を円で囲った。その時武蔵は気付いた、瑣末なことに捉われすぎていたということに。そして、武蔵は再び前に進み始め、小次郎との戦いへと向かってゆく。

 上を目指し続ける武蔵、武蔵を意識しその上を目指す小次郎、武蔵とは別の方向で勝ろうとする又八や一途なお通、状況に流されやすい朱実など、登場人物の行動原理の違いは、時に共感し、時に理解が難しく読んでいて面白いかつ勉強になった。また、悩める武蔵が成長していく姿はたとえ遠回りをしても前に進む意識を持つことの大切さを物語っており、前への意識が道を切り開き得ることを切に感じた。

 全体としてとてもおもしろかった。いつかまた読み直したい作品である。


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NO.17  『宮本武蔵(七)二天の巻』  吉川 英治 著

 法典ヶ原での修業の後、武蔵はついに江戸に入る。その頃、江戸には小幡一門と争う小次郎や武蔵を待ち構えるお杉婆、お通、又八がいた。舞台は京から江戸へと完全に移り変わったのである。当時江戸では各藩が優秀な人材を死に物狂いで探し求めており、武蔵や小次郎も当然の如く目を付けられていた。そして、武蔵野の草庵で暮らす武蔵とは対照的に小次郎は細川家に仕官する話が着々と進んでゆく。その後、小次郎にやや後れをとったものの武蔵にも幕府の仕官の話が舞い込んでくる。それまで出世に無関心であった武蔵だが、「剣の心を持って、政道はならぬものか、剣の悟りを以って、安民の策は立たぬものか」と考え幕士に対する野心を見せ始めるのだが、まもなく沙汰止みとなり「政治の道は武のみが本ではない。文武二道の大円明の境こそ、無欠の政治があり、世を活かす大道の剣の極致があった。もっと自身を、文武二天へ謙譲に仕えて研きをかけねばならぬ。――世を政治する前に、もっともっと、世から教えられて来ねば…」と再び修業に出ることを決心する。

 本書は武蔵>小次郎という図式で書かれているだけに読者は必然的に武蔵を応援したくなる。前巻で遠回りをすることは悪いことではないと書いたが、武蔵が足踏みをし小次郎が出世の道を早々と進んでいくとどうしても焦ってしまう。さすがに面白い展開になっていると感心してしまった。


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NO.16  『宮本武蔵(六)風の巻 3/3』  吉川 英治 著

 武蔵は一乗寺下り松の戦いからなんとか命あるまま帰ることができた。と同時に武蔵の考え方は変化しつつあった。剣を極めて何がしたいのか、何ができるのかを武蔵は考え始める。折も折、武蔵が吉岡一門の大将であった源太郎少年を最初に討ったことと逃げ帰ったことに対して一門は中傷を繰り返した。結果、武蔵は京をはなれ江戸に向かうことになる。しかしながら、武蔵はその道中偶然出会った伊織と共に下総の法典ヶ原で未墾の荒野を相手に「治」の修業を始める。武蔵の考え方の変化が最初にでた瞬間だった。武蔵は剣を捨て自然と闘うことで治めるとは如何なるものなのかを学び取っていったのだった。

 私は風の巻の後半を読んでつよく感じたことがある。それは悩むことは大切であるということ。当然のことと思うかもしれないが、武蔵が思考を凝らし時には直感で行動することで遠回りかもしれないが一歩一歩着実に、そして真っ直ぐ進んだ時よりも深い考え方を携えて、宮本武蔵を形作っている。悩み、時には的外れかもしれないが、何かについて考えて出された結果の行動であればそれはいずれその何かに繋がってくるのではないかと思った。


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NO.15  『宮本武蔵(五)風の巻 2/3』  吉川 英治 著

 清十郎との戦いの後、武蔵は寛永の三筆の一人であり、当時の日本文化の花と讃えられる本阿弥光悦と出会うことになる。粗野な育ちである武蔵にとって、洗練された名家の出である光悦の振る舞いのインパクトは計り知れないものであった。当初、武蔵は向上心の欠片すら見受けられない光悦の生活に困惑し、宝蔵院の僧日観の言葉を聞いた時から続く武蔵の苦悩に一層の拍車をかけた。また、苦悶する一方で、今や吉岡一門の敵となった武蔵は立て続けに試合を申し込まれる。清十郎の弟・伝七郎との蓮華王院での戦いや一門70余人との一乗時下り松での戦いである。風の巻の中盤では、一乗寺下り松の戦いを前に初めて死を意識する武蔵の心の動きが色濃く描かれている。

 日観の言葉と同意とも捉えられる光悦の放つ雰囲気、かつて沢庵に説かれた命と裏表の関係にある死、この二つが何を意味するのか。一乗寺の戦いが苦悩する武蔵のターニングポイントになるのか今から楽しみである。


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NO.14  『宮本武蔵(四)風の巻 1/3』  吉川 英治 著

 武蔵と吉岡清十郎の決闘に引き寄せられるが如くそれぞれは京都に集まって行く。一年前に約束したあの決闘である。武蔵は吉岡一門を破るべく全国の剣豪の下を渡り歩いてきた。一方、朱実に振り回された清十郎は修業に身を費やすことができないでいた。故に、両者の力の差は歴然、清十郎は一撃で敗れることになる。風の巻の序盤では京都に集ったそれぞれの複雑な関係、また武蔵と本阿弥光悦の出会いが描かれている。

 私はこの巻でも武蔵と又八の人間性とでも言うのだろうか、日々の物事に対する姿勢の違いがとても印象に残った。前回も同意の事を書いたが、私は武蔵のように清廉潔白で向上心に満ちている人物に憧れを抱いている。しかしながら私は、やはり根は又八のようにいつも逃げ腰で有言不実行な人間なのだ。着々と成長を続ける武蔵に対して、又八が今後どのように成長していくのか、または成長できないのか、今後が楽しみである。


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NO.13  『宮本武蔵(三)火の巻』  吉川 英治 著

  火の巻では武蔵を取り囲むお通、又八、小次郎を初めとする多くの人たちが登場する。そして、それぞれの話は次へ続く吉岡清十郎との戦いが行われる京都へと向かってゆく。武蔵の元へ集まる手筈が整えられてゆく様に、私はつい胸を躍らせてしまう。次の展開を待ちきれない気持ちにさせる著者はさすがである。

 話を戻そう。火の巻で最も印象に残ったのは又八の考え方である。彼は剣で武蔵に勝つことが難しいことを悟ると、剣とは異なる世界で武蔵以上に成功しようと考える。この又八の考え方は、勉強集団で芸術に走ったり、芸術集団で勉強に走ってきた今までの私を見ているようで耳が痛い。今思えば、このような勝負をしない逃げの姿勢での成功はとても難しいことがよくわかる。しかし、又八はそんなことに気づく由もなく舞台は着々と京都へと向かってゆく。


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NO.12  『宮本武蔵(二)水の巻』  吉川 英治 著

 「強すぎる、もうすこし、弱くなるがよい」

 3年間の読書生活の後、武者修行のため諸国を渡り歩いていた武蔵は宝蔵院の僧日観にそう言われる。強くなろうと修業に励む武蔵にとって、その言葉は理解できぬものであった。もちろん私にもわからないが、ここまで見てきた武蔵を踏まえて考えてみると、武蔵は沢庵に剣は文武がひとつになって力を発揮すると教わり、そして文をある程度備えてから武者修業に出たにもかかわらず、武蔵の行動はやはり強いものを剣で倒す武のことばかりに目が行っている。時折、日観や石舟斎のような武蔵よりも格段上の存在を目の当たりにした時、武蔵は剣の真髄に、そして自分の弱さの所以に近づきそうになるのだ。日観はそこを指摘したのではないだろうか。修業不足を自覚し石舟斎に会わずして旅立った武蔵、先の見えない剣を求める武者修行は続いてゆく。


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NO.11  『宮本武蔵(一)地の巻』  吉川 英治 著

 読み終わった後のこの感覚は何なのだろうか。武蔵はもとより又八、お通、沢庵といった人物が頭の中に映像となって残っている。それくらいそれぞれの人物に人間味を感じ、印象に残ったのだろう。この感覚は初めてであった。早く次を読みたくて仕方がない。

 宮本村の武蔵(たけぞう)は強い。しかし、その強さ故に力任せすぎた。自らが正しいと思うことや使命と感じることに一直線に進み、後先考えずに行動する。まさに文武の武しか備わっていない人物である。そんな武蔵ではあるが、あるとき僧沢庵と出会うことで生まれ変わることになる。沢庵は言う「―怖いものの怖さを知れ。―暴勇は児戯、無知、獣の強さ。―もののふの強さであれ。―命は珠よ。」と。武蔵はそれまでの悪行を悔やんだ。その後武蔵は3年間読書のみの生活を送ることになり、21歳のとき、宮本武蔵(むさし)という新たな名とともに新しい人生が始まった。

 地の巻の中で、私は「文武両道」の重要性を実感した。文武両道を謳う高校いながら、少しも文の大切さを理解せずに卒業した私にとって、18歳で沢庵と出会えた武蔵を羨ましく思う。と同時に、私も一層読書をしなければと刺激を受けた。


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NO.10  『イエスの生涯』  遠藤 周作 著

 本書は著者が聖書、福音書の他、過去に書かれたイエス伝から真のイエスを推理した小説である。強引な推測も多々見受けられるものの、全体としてはなるほどと頷けるものであった。

 イエスは生涯に渡り彼の描きつづけた神の愛、愛の神を誰に理解されることもなかった。人々は無力な愛よりも現実的な効果をもたらす力を神に求めていたのだ。それ故、人々は愛を唱えるだけのイエスが無力と知るや否や彼を見捨てる。弟子たちでさえも彼を裏切り見捨てた。そして、全てに見捨てられたイエスは磔刑を宣告され、その生涯を終えることになる。

 私はイエスがその死後に神とたりえた所以は数多くの伝説ではなく、十字架につるされながら語った言葉にあるように思う。彼を見捨てた人々や裏切った弟子たちにさえ、彼は許しを神に請うたのである。私には到底理解できぬ心境である。こんな人がいるのかと素直に驚いてしまった。

 いずれにせよ、これらが事実かどうかは不明である。しかしながら、著者は言う「これらは事実ではないかもしれないが真実である」と。確かに事実ではないかもしれない真実の存在がイエスを支えているのかもしれない。


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NO.9  『勝者の混迷(下)』  塩野 七生 著

 前巻に引き続き、本巻もマリウスとスッラの時代から始まり、スッラの後に頭角を現すポンペイウスの時代までが描かれている。相も変わらずこの時代は混迷していたのだが、スッラとポンペイウスの二人の活躍は目覚しかった。

 スッラ、彼にはビジョンがあったと言うのが相応しいだろう。ローマの混迷に秩序を回復するための行政改革は的を射ていた。制度を立て直すために制度を破る行動は、一見矛盾するようだが、的確な判断だったように思う。しかし、漸く成し遂げた秩序を見方に破壊される様子はいかにもスッラらしい皮肉であった。とは言え、やはり彼の構想は素晴しいと言うほかないだろう。

 一方、ポンペイウスはスキピオ・アフリカヌス以来の天才と言われる逸材であった。軍事、政治の両面で優れていたため、読み進めるうちに「内臓の成長」の最終段階を仕上げる人物かとも思ってしまった。しかしながら、世の中には偉人の上に偉人がいるらしい。

 ローマ史上の「偉大なる個人」がいよいよ登場するようだ。今から楽しみで仕方がない。


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NO.8  『勝者の混迷(上)』  塩野 七生 著

 前巻の最後に反旗を翻してきたマケドニア、カルタゴを消滅させたローマだったが、本巻では内部に手を焼くことになる。若くして護民官となったティベリウス・グラックスがその改革を断行しようとするが元老院によって阻まれ、またその弟のガイウス・グラックスも辛酸を舐めることとなる。そして、その後この役目を担ったのが先祖の名も定かではないガイウス・マリウスであった。

 本巻で最も印象的だったのが、高貴な生まれと裕福な環境に恵まれていたグラックス兄弟が命を犠牲にしてまで高貴でもなく裕福でもない人の権利を守ろうとした姿だった。彼らは大人しく出世の階段を登って行けば執政官、後には元老院の中心になれる家柄であったにも関わらず、老朽化したローマのシステムに危機感を感じ、改革を断行しようとしたのである。文字通り護民官としての役割を果たそうとした彼らには感服であった。また、彼らは改革を急ぎすぎたものの、後の指導者たちに改革の道標を提示した功績は大きいと言える。ハンニバルの言う、「先に成長してしまった肉体を維持するのに適した内臓の成長」をグラックス兄弟は始めたのである。

 彼らのエネルギーの源泉は何であったか。おそらくそれはローマの存続、発展を切望する精神であったのだろう。私はローマの将来を見据えて信念を貫いてゆく彼らの姿に敬意を表さずにはいられない。指導者たるものこうあって欲しいものであると我々の指導者を見てそう思ってしまう。


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NO.7  『ハンニバル戦記(下)』  塩野 七生 著

 第二次ポエニ戦役の終盤から始まる本巻では、カルタゴ本土への攻撃の指揮を執るスキピオとその結果帰還を命ぜられカルタゴに戻るハンニバルとの死闘、そして戦役後のローマの覇権体制、その延長にあるマケドニアとカルタゴの滅亡まで書かれている。

 前巻に引き続きスキピオの戦術眼は優れていたと同時に、外交力も素晴しいものを持っていた。その力は戦役中はもちろんその後も発揮され、地中海諸国を次々と同盟国としていったのだ。さらに持ち前のローマ人の開放性と属国としてではなく同盟国として扱う「穏健な帝国主義」も功を奏し、半世紀あまりでローマは地中海を制覇するほど巨大化していた。

 しかし地中海制覇も束の間、マケドニアやカルタゴが反旗を翻し始めたのだ。彼らはローマ軍によって滅亡され、地中海は平穏を取り戻すものの、ここにきて「穏健な帝国主義」に陰りが見え始めてきたのは紛れもない事実であった。

 ハンニバル戦記を終盤まで読んだ時点で、私は「穏健な帝国主義」こそがローマをここまで大きくしたのだと考えていた。しかしながらマケドニア、カルタゴと立て続けに反旗を翻され強硬な姿勢をとり始めたローマを見ていると、今後の発展はこのローマ人の精神によるものではないのだろうと予想できる。次にローマ人を支配する考え方は何なのか、そして従来の考え方の立場はどうなっていくのかに注目したい。

 

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NO.6  『ハンニバル戦記(中)』  塩野 七生 著

 本巻では第二次ポエニ戦役、ハンニバルがローマ連合解体という戦略を背景に戦闘でローマを圧倒する前期、ローマが建て直しを図る中期、そしてローマがハンニバルを追い詰める後期と三つの章に分けて描いている。

 ここでも圧倒的な戦闘での強さを誇るハンニバルに屈しないローマの強さが見て取れる。国論の分裂を引き起こさない政体や征服による統治ではない連合の思った以上に強い繋がりがこの強さの所以であろう。他民族には見られない独特な体制を持つローマならではの強さであった。

 またこの巻では二人の天才武将の登場がある。ハンニバルとスキピオである。ハンニバルはアレキサンダーの戦術に学び、一方スキピオはハンニバルとの戦いに直に触れることでその戦術を学んでいる。両者共に情報収集に力を置き、それを分析し、相手の行動を読み、敵陣の裏をかいている。書中に「天才とは、誰もが見ていながらも重要性に気付かなかった旧事実に気づく人のことである。」とあるが、確かにこの両人は的確に情報を分析している。

 この二人とローマから学ぶことは多い。次巻での新生スキピオの活躍に期待したい。


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NO.5  『ハンニバル戦記(上)』  塩野 七生 著

 本巻から三巻に渡りカルタゴとのポエニ戦役の様子を、その中でも本巻では第一次ポエニ戦役とその後の休戦期間である二十三年間を描いている。紀元前二百六十五年、気付けばローマは南イタリアを統一していた。しかしながらローマ人たちはそれ以上の拡張を目下望んでいなかった。メッシーナからの援軍要請を受けたのはそんな時であった。ローマ人たちはそれを受諾した。ここで直面するのがシチリア西部を支配していたカルタゴとの衝突であった。これがポエニ戦役のすべての始まりである。

 ローマは第一次ポエニ戦役で勝利を収める。私は、その勝利に貢献する戦術眼にも驚かされたが、それ以上に休戦中に見せるローマ人の特性に目を見張った。「ローマは一日にして成らず」でも見てきたことだが、ローマ人の自分で何でもしようとしない姿勢がここまでローマを大きくさせているのではないかと思ってしまった。エトルリア人には土木事業を任せ、ギリシア人には通商を任せる。ローマ人自らがナンバー・ワンになるのではなく、スペシャリストの能力を理解しその仕事は彼らに任せる。この姿勢がローマにおいて上手く機能しているように感じた。このようにこの時代、彼らの開放的な性質がローマの拡大に比例しているように見えるため、今後とも注目していきたいと思う。


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NO.4  『ローマは一日にして成らず(下)』  塩野 七生 著

 前巻に続く本巻ではローマの共和政の流れが書かれている。貴族派と民衆派に二分されたローマを襲うケルト族との戦いに始まり、復興を目指しゆっくりではあるが着実に力を付けてゆく姿、さらにローマ連合を作り南イタリアを統一するまでの苦難の道を描いている。

 読み終えて感じることは著者と同じものであった。本書のテーマでもあるのだが、「なぜローマだけが、大を成すことができたのか」であった。あれだけ力を持っていたギリシアでさえ衰退してしまったのに、ローマだけが興隆していく様は不思議以外の何者でもなかった。

 読み進めるとそれとなくその原因ではないかと思われるところもある。前巻でも挙げたものもあるが、ローマ人の宗教に対する寛容性や敗者をローマに内包してしまうシステム、独特の三権分立の政治システムもその一つとして考えられる。いずれにしても確信を持ってこれだと言えるものではない。

 しかしながら私はこの先を読むことで抽出できる何かがあると考えている。今眼前にあるものはローマ人が興隆した原因の一部であることは間違いない。これらから、さらには読み進めて得る新たな事象から、一般化できるローマ人の興隆の秘密を探っていきたいと思う。


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NO.3  『ローマは一日にして成らず(上)』  塩野 七生 著

 ローマ人の物語、二年半前の私なら確実に読んでいない本である。カタカナで並べられた活字を見ただけで嫌気がさす典型的な世界史嫌いであった。ゆえに世界史の知識は全くないに等しい。しかしながら最近、私は西洋画に興味を持ち始め、その絵が書かれた時代の様子や題材のルーツを知りたくなった。そのため、今回「ローマ人の物語」を読んでみようと思ったのである。

 さて、読んでみての最初の感想は非常にわかり易いといったところである。予備知識が無くとも理解し読み進めることが出来るのでおもしろい。

 本書ではローマがどのようにして誕生し、そして初期の七人の王政、さらにその王政後共和政となっていくローマの様子を周辺の動向とともに描いている。また、本書は著者が冒頭で述べているように「なぜローマ人だけが、あれだけ大を成すことができたのか」を見つけることを目的としており、著者と共にそれを考えるのも一つの楽しみである。この巻では宗教についてのローマ人とその他の民族との考え方の違いがその一つの例として私に題材を与えてくれたようだ。一神教と多神教の違いから生じる他者に対する寛容さの違いの話はとても興味深い。

 早く次を読んで、ローマをもっと知りたいと思う。


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NO.2  『最後の将軍 -徳川慶喜- 』  司馬 遼太郎 著

 慶喜、彼は幼少の頃より父斉昭の教育方針に従い厳しい環境の下で育てられ、それと同時に多大なる期待の背に受け成長していった。そのため、時に世間から過大な評価を受けることもしばしばあり、また慶喜の思想とは真逆の慶喜が噂を通し世の中に作り上げられることもあった。彼の人生の大半はこのような人の噂によって振り回されている。彼の周りにまとわりつく環境は不運であったとしか言いようが無い。

 しかしながら、彼自身はその不運に立ち向かえるほどの器量を持つ英才であった。時代の流れを冷静に見つめ、どの方角に事が動いてゆくかを分析し行動をとる様には感服である。彼のこの分析力の根底には歴史というものが大きな意味を持っているように感じた。水戸の出身であるが故、歴史に対する気の掛けようは凄まじかったのだろう。特に大政奉還前後からは、常に歴史に名を残すのに恥じない行動をとることを心がけている。この姿勢は彼が歴史に対してどれだけ重きを置いているかを窺えるものである。

 私は慶喜からも歴史観を持つことの重要性を再認識させられた。今現在の状況が歴史上のどの状態に近いのか、またそれはどの方角に進んで行くのかを予測するために歴史を知ることは大切であると感じた。

 余談ではあるが、福澤諭吉と同じ時代に生き、将軍と一般人という正反対の位置にいる二人を比べることは非常におもしろい。それとともに、新撰組、坂本竜馬など異なる人物の視点から同時代を眺めることで新たな発見が出来るような気がしてならない。他の人物の本を読むのが今から楽しみである。


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NO.1  『リンカン -奴隷解放の先駆者- 』  石井 満 著

 彼はヨーロッパからアメリカに移住してきた家系に生まれ、小さい頃から貧しい生活を送ってきた。もちろん学校などにも通うことはできなかった。しかし、彼は貧しいながらも試行錯誤の結果手に入れた書物や、社会大学とでも言うべきだろうか、身のまわりの生活から様々なことを独学で学び取っていった。そして彼は持ち前の正直さと雄弁を武器に多くの人々を惹き付け、大統領になるまでに至った。そう、彼の名はアブラハム・リンカーンである。

 リンカーンと言えば奴隷解放や「人民の、人民による、人民のための…」のフレーズを知っている程度で、アメリカの大統領になるくらいだからきっと良い家の生まれであまり苦労していない人物なのだろうと思っていた。(そろそろこのような安易な考えは止めようと思う。)ところが冒頭にも書いたように全く逆であった。

 本書を読んで彼の人生から学ぶことは多い。正直であることの重要さ、書物の読み方、失敗を成功に生かそうとする姿勢、民主主義における一人の正義の強さなどひとつひとつ挙げればきりがない。中でも「正直」という言葉はリンカーンを語る上で外すことが出来ない。正直、自らが考え抜いて出した答えに嘘や不正を許さないその姿勢。言い換えれば、何事にも妥協を許さないその姿勢にひどく感動した。その姿勢、見習いたいと思う。

 最後に、彼の生涯が暗殺で幕を閉じたことが残念で仕方が無い。


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( C ) M . K A l l r i g h t s r e s e r v e d .

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