〜あの食への旅〜
 LAST TRAVEL




序章


ぽくちんの章


「食について考える」の章





 

序章




動物たちは貪りふけり、人間は食べる。才知ある人だけがその食べ方を知る。

ジャン・アンテルム・ブリヤ・サヴァラン(1755〜1826、美食の国フランスを代表する美食家)



 「あの食への旅」…わたくしたち権丈志士が論文が上手く進まないとき、what's newのネタが思いつかないとき、そしてテストのノートがさっぱり理解できないとき、わたくしたちは(人によって頻度・度合いはまちまちだが)しばしば現実逃避をする。その現実逃避の方法は歴史小説やサッカーゲームから湘南の海・河口湖まで幅広いが、全員に共通するもの。それは「食べる」ことである。食べることは手軽にある程度満足を得ることが出来るため格好の現実逃避の材料となるのである。この記事は皆さんの食欲をそそり、「カップラーメン食べたい」とか「そういえばベビースターラーメンあったな」とか思っていただくことを目標として書かれた格闘の記録である(欲望との)。今回は「LAST TRAVEL」ということで今までとは少し趣向を変え「食」について考えてみようと思う。鍋でも食べながら。そう、結局食べるのである。と、その前に「ポクポクポクチン」についても語ろうと思う。

 








ぽくちんの章




私は美味しいスープで生きているのであって、上品な言葉で生きているのではない。


モリエール
(本名:ジャン・バティスト・
ポクラン 1622〜1673 喜劇作家・俳優)




 ポクポクポクチンはマンモスラーメンと自ら語るだけあって、本当に色んな意味でビックリするラーメン屋である。その名は西は日吉から東は三田まで、老若男女の男だけというかなり狭い範囲にのみ知られるにとどまっているが、ここで紹介したい。

 みなさんは知っているだろうか?この謎のラーメン屋「マンモスラーメン ポクポクポクチン」は私たち7期生のほとんどが日吉を旅立った後、突如としてカラオケ「バンガローハウス」の横に出来たラーメン屋である。そして三田や目黒、川崎蒲田などでわたくしたちの胃袋を満たしてくれ、「飲んだ後に食べたら吐くラーメンno.1」であるあの有名店と何らかの共通点があるという情報も得た。ここまできたら行くしかない!ということで行ってまいりました。

 途中わたくしが個人的に日吉で過ごした「もうひとつの青春」の象徴であったゲームセンターがなくなっていたことにショックを受け、ふらふらになっていたが、なんとかたどり着くことが出来た。このたたずまいはかなり普通であるが、内容が普通じゃない。ラーメンは「原始時代」をイメージしたようなつくりになっており、マンモーと呼ばれる「マンガ肉」(骨付き肉)や、「なぜこんな名前なのか」という問いに対して全く仮説が浮かばない「ウエボ」という味玉など一応個性的になっている。しかし個性的な店ほど裏に何かが隠れていたりすることもある。意識すればするほど何とか「違うモノ」にしようと躍起になる。隠そうとすればするほど不自然になる。頭かくして尻隠さず、そんなものである。そして外の券売機(?)で食券を買う。男のプライドで「大盛り」である。しかし「麺が多い」という注意もあるようだ。・・・ん?そして麺が太い、野菜が多い、スープに漂う背脂…ん?どこかで聞いたことあるようなスペック…。そしてブツが現れる。もうその頃には不安は確信に変わっていた。

・・・確実に○郎である。


どこからどう見ても○郎である。もう言い逃れは出来ない。わたくしたちに発見されたのだから。

(左:普通盛  右:大盛りにんにく)

 いくら「インスパイア」が流行だからといって、やはりエイベックスも許されないのであって、こんな行為許されてはいけないのである…。麺が太い。どこまでも麺が太い。そう、あくまでも「インスパイア」なのである。またきっちりにんにくの量まで聞いてくれる。しつこいようだが「インスパイア」である。そして立地は「日吉」という今まで需要があるにも関わらず供給が「らすた」しかなかった場所である。まぁ、こんなことばかりを言っていても仕方がない。時間はもとには戻らないのだから。受け入れよう、この事実を。そして食べよう。ということで食べようとしたとき、わたくしはふと希望を見出した。「そうだ、味は、味は違うはず…」。そう願いながら食べた一口目…。


同じだ・・・。
(注:写真はわたくしの心の中を表したイメージです。)



正確には少し薄いが、「これ、はい○郎」と言われれば判断しかねるだろう。裏切られた気分である。しかしそんなことでへこたれてはいられない。男たるもの早食いできてナンボ。ということで今回もタイムアタックしてみた。前回と唯一かつ決定的に違うポイント、「熱さ」を乗り越え二郎、いやいや、ポクポクを食す。


完食(time9:45)

 確かにインスパイアされた味であったが、わたくし個人としては○郎のチャーシューには火がしっかり通ってないのに対して、こちらはしっかり火が通っていたので、ポクポクポクチンもアリではないかと考えている。「そんなことかよ」と思われる方もいるかもしれないが、本当にそれくらいしか差がなく、正直○郎直系の店かとも考えたがHPを見ても、「日吉店」なるものは存在しない。というよりこんな無茶苦茶な名前を付けていたら、のれん分けしてもらえないような気さえもする。
 しかしこのようなポクポクポクチンであるが、見方を変えればすごく便利なのである。テニスの帰り、今までのわたくしたちは武蔵小杉(通称ムサコ○郎)にまで遠征しなければなかったものも、日吉で済み、さらにチャーシューに火が通っているのである。皆さんもテニスの帰り、是非行ってインスパイアぶりを確かめてきて欲しい。あ、でも○郎より百円高いです。








「食について考える」の章





自分の胃袋のことを構わない人間は、他のなにをやっても駄目だろう。

サミュエル・ジョンソン 1709〜1784、イギリスの作家・詩人。「英語辞典」の編纂者




 このように、わたくしは食べに食べて、今も鍋を食べているのだが、「食べる」ということについて考えてみよう。鍋はやはりキムチ鍋に限る。またキムチ鍋の素は「モランボン社製 キムチチゲ用スープ辛口」がオススメである。そしてキムチ鍋を食べると言ったら、必要なのはビールである。ビールはなんと言っても「アサヒ スーパードライ」である。もちろんわたくしごとであるが、わたくしと鍋をするときはこの設定でお願いしたい。


家庭的というか一人暮らし感丸出しですが、考えています。




考えております。






考えていますから!!



 そう、「あの食への旅」という題名を掲げ、「旅」であるからこそは、自宅に帰らなければならない。「旅と遠足は自宅まで」である。ということで、最後は自宅でしっとりと考えてみようというわけである。ここで「食」とは一体何なのか、そしてわたくしたちにとってどのような意味を持つのかを考えることで、このあてもない旅路に終止符を打つことができれば、とも思う。
 
 まず一般的に「食」とは一体何なのか、広辞苑(第五版)で調べてみた。

食…くうこと。たべること。たべもの。

とある。ここでわたくしが意味している「食」は前二つの意味、「くうこと・たべること」に近いであろう。しかしこれでは「食」という言葉を言い換えただけである。何をやっているんだか、広辞苑は。ということで、仕方のない広辞苑の尻拭いをすべく、もう一度広辞苑を使って意味を更に限定した言葉、「食事」で調べてみる。

食事…生存に必要な栄養分をとるために、毎日の習慣としてものを食べること。またその習慣。

これで少し理解できた気がする。食事とは、本来生存のために生命体を「食」す行為のことである。自然界のサイクルとして最も根本的な部分のひとつである「食物連鎖」の最終部分をわたくしたち人間が担っているのである。しかし現代はその意味が分業化によって分断され(わたくしたちはよほど特異な機会がない限り、直接生きた生物を食べるために殺しはしない)、パック詰めにされ、すでに生命体ではなくなった「食べ物」を購入し、食事する。これは自然の姿ではないということはわたくしにも分かるが、これが「正しいことなのか、そうでないことなのか」は判断しかねている。社会が発展していく上で分業化はほとんどの文明が通ってきた道であろうし、何より合理的である。

 しかし最近少なからず違和感を覚えることがあった。それは理系の友達の実験の話である。理系の友達が実験でウニの身を顕微鏡で観察したらしいのだが、その感想は「ウニの身にはもうそれは尋常ではない量のプランクトン(ミジンコやミドリムシ、ゾウリムシなど)が詰まっており、アレを見たらウニはとても食べれない」というものだった。ん・・・?アレを見たらウニはとても食べれない?(わたくしの個人的な価値判断を含むが)それは間違った感覚なのではないだろうか。ここでもう一度、食事の定義を振り返る。わたくしたちは生存に必要な栄養分をとるために、毎日の習慣としてもの(生命体)を食べているのである。そう、分業化されたわたくしたちの「食」には、食の根本が生命体にあるという概念がすっぽりと抜け落ちてしまっているのである。ウニも生命体であるから、食事をするのは当たり前であるし、プランクトンも食べるだろう。食事は「おいしい」と感じかどうか、それが全てではないだろうか。何せ栄養分を取る為のものであり、観察するものではないのだから。そこで「気持ち悪い」という感情が生まれるのはなぜだろうか?その仮説として私は分断された「食」に目をつけたわけであるが、ただ単にプランクトンの形が見慣れず「気持ち悪い」と感じるだけのかも知れないし、その結果やはり気持ち悪くて食べる気がしないというならそれもいいだろう。しかしわたくしは「おいしい」と感じるモノをみすみす経験出来なくなるのは嫌である。それがわたくしの小さいながらも「食」に対しての意地である。

 

 …そしてわたくしたちは、今日も、昨日も20年前も、20年後も食べて、食べて、食べ続けるのである。この流れだけはわたくしたちには止めることが出来ない。身近すぎて考えることがないのかもしれないが、「食べたものがわたくしたちの血や肉を作り出す原材料である」という観点から言えば、わたくしたちにとって「食」は大きな意味を持っているのではないだろうか。そう考えることができるなら、このあたりで一度、ここまで20年以上付き合ってきて、これから40年以上付き合っていく「食」について考えてみてはいかがだろう。


「食べる」ことは「生きること」である。「食べること」を考えることは「生きること」を考えることである。

宮本直樹(1984〜 寺本藩7期に所属し、「寺本『食』博士」を勝手に名乗っている。)